生誕地協会の歩み

アイオワ州クラリンダ南16番街に住む、マッティ・ルウとルイス・エルマー・ミラー夫婦の間に1904年3月1日、次男のオルトン・グレンが生まれた時、その可愛らしい茶色の目をしたベビーが、後に時代を越えて最も人気の高いバンド・リーダーに成長することを誰も予見できませんでした。

それからおよそ72年経った、アメリカ独立200年記念の年。グレン・ミラーの生家の庭に集まった数人の誰もが、彼の残した曲の素晴らしさや偉業を称えながらも、その瞬間が、将来の国際的な協会のスタート点になるとは想像もし得ませんでした。この集まりこそが、グレン・ミラーを追悼して着実に発展していくグループ発足の第一歩だったのです。

そのグループは成長して「グレン・ミラー生誕地協会」になり、今や23ヶ国からおよそ1,200人のメンバーが参加しています。同協会は毎年、恒例の「グレン・ミラー・フェスティバル」を催していますが、多くの州および日本、ドイツ、英国、南アフリカ、カナダ他から人々が訪れています。フェスティバルではミラーの映画上映、博物館の公開、そしてプロの器楽専攻を目指す高校生および大学生を対象にグレン・ミラー奨学金を与え、その授与式を含むステージ・ショーをくりひろげます。同奨学基金は「ゴールド」「シルバー」または「ブロンズ」の会員に加入されたメンバーの方々によって実現されています。

クラリンダは、クリーンなイメージの魅力あふれる友好的な町です。グレン・ミラー街、グレン・ミラー通りがあり、またジェームス・スチュアートとグレンの母親マッティ・ルウ・ミラーが1954年、映画“グレン・ミラー物語”のプレス向け初日に顔を見せたことのあるグレン・ミラーの生家があります。

南グレン・ミラー街(南ハイウェイ71)に「ノダウェイ・ヴァレー歴史協会」博物館が完成、グレン・ミラーの展示コーナーもできました。1989年、グレン・ミラーの娘であるジョニー・ディ・ミラーは、父オルトン・グレン・ミラーが1904年3月1日に生まれた家を購入しました。(ミラー家は1800年代半ばにクラリンダの地に入り、上の二人の息子ディーンとグレンが生まれた後の1906年の終わりに越して行きました。)

生家購入の2年後から家の修復の主な作業が始まりました。当時生家の事を良く知る人はいませんでしたが、生家購入のニュースがアソシエイティド・プレスの記事になったことで、ある反響がこのプロジェクトに大いに役立つことになりました。オレゴン州サレムに住むボブ・ワトソン家から協会へ連絡が入ったのです。そして彼等の父親が以前その生家を購入したこと、北側部分に元々の広さ2倍に増築していたことも判りました。又数枚の古い写真により生家の当時の雰囲気をそのままに再現することが出来、修復プロジェクトには大変貴重なものとなりました。また2013年にはグレン・ミラーミュージアムが完成、資料等が展示されています。
これらの努力の結果、世界中の人々がグレン・ミラーの生家と全ての始まりとなる場所をじかに見る事ができる素晴らしい体験をするのです。

「グレン・ミラー生誕地協会」は、世界中のグレン・ミラー音楽を愛する人々と集い、理解し、友情を結び、音楽家を志す青少年を育む団体として今後も活発に活動していきます。